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ナリスマスパーティ

ちゃんとした勉強を出来る限り避けて生きてきたこれまでのボクの人生では触れ合うこともなかった文化人類学という学問に、人生の終わりに随分近づいてから興味が湧いてきた。その建付けは以下の通り(いつものようにザックリとしたボクの理解ベースで)。 ーーー ・世界中のさまざまな文化や社会を広範に比較し、異なる文化の実態や社会構造を理解することを目的とした学問 ・比較するために、ジーッっと眼をガン開いて他文化を見つめまくり、耳をかっぽじって聞きまくり、あーなるほどねーっと違いを見つけまくる ・違いを見つけまくるために、対象となる他文化に深く入り込み、その現地のモノの見方を獲得した上で、その他文化の言語・宗教・社会構造・生活環境・習慣・ルール・モラル・マナーなどを徹底的に観察、これを繰り返す(フィールドワーク) ・その観察から得られたデータを、自分自身の偏見や先入観は徹底的に排除した上で分析し、自文化との共通点や相違点を明らかする(エスノグラフィー) ※この文化人類学のエスノグラフィーとフィールドワークのアプローチは、自分でない他の人間(ほとんどの場合は商品やサービスのエンドユーザー)の視点に自分の視点を切り替え、製品・サービス開発・改善などにおいて実践的な解決策を見出す、というデザイン思考のものと類似してる、というか文化人類学・デザイン思考に加えデザイン人類学は、活動対象と期待する成果に違いはあれど、アプローチはほぼ同じか。デザイン思考におけるビジネスエスノグラフィーなら、短い場合は1時間のインタビュー、長くても例えば1週間のターゲットの観察、みたいなサイズ感なんだけど、どうやら文化人類学の活動においては「他文化」の研究対象の中に数年間入り込む、というレベルみたい。すごっ。そうでないと上述した「他文化の視点」をジャックすることはできないんだろうね。例えばその研究対象=他文化がナハボ族ならその中で数年間生活し、そこで得た他文化の視点から日本文化を見つめて違いを見出す、ってこと。 ーーー 当然文化人類学者でのないボクは、文化人類学という括りでフィールドワークをしたことはないわけなんだけど、カリフォルニアで12年間生活したことを自分勝手に解釈するなら、文化人類学のフィールドワークにおける「研究対象に数年間入り込む」に相当する経験なのだと思うので、 ・他文化=カリフォルニア ・自文化=東...

的を得ずんば的射れず

「的を射る」は、物事の肝心な点を確実に捉える、とか、要点をつかむ、という意味。 「的を得る」を同様の意味を持つ言葉だと解釈しているひとが少なくないようだけど、これは「的を射る」の誤用(かくいうボクもそういう使い方をしてこなかったわけじゃない)。 でも、「的を射る」が狙った何かを「確実に捉える」という意味なら、「得る」を誤用として切り捨てず、「的自体を獲得する」という意味を持たせてもいいんじゃないかなーと思ってる。 つまり、既に的が在りその的を確実に捉えた、道を逸れず狙った物事に向かって期待通りに進んだ、これを「的を射た」状態とするなら、「的を得る」は、狙うべき的そのものを得たという状態。 ・的を射た(射ている)=的は以前からある。その的を捉えた(捉えるべく進んでいる) ・的を得た(得ている)=的はこれまでなかった。狙うべき的を獲得した(獲得に向かい進んでいる) という違い。 裏返すなら、 的を射ない=狙いを外した・外している状態(的外れ) 的を得ない=的自体が未だ無い状態 なぜ「的を得ない」という言葉を単なる誤用として扱うのではなく、上記のような意味を持たせたいかといえば、単純に「的自体が未だ無い状態」を表す言葉が存在しないように思ってるから(類義語なら「お門違い」とか「見当違い」がそれにあたるんだろうけど、”的”を使った同義語にボクはまだ出会ってない)。 そもそも「的を射る」には「的を得る」必要があるわな。 そりゃそうでしょ。狙うべき的がはっきりしてないのに、それを射る(とらえる)ことはできないわけで、的を得ていないのに「射ている・射ていない」を議論するならそれはまったくの虚空。 ーーー これまでの経験において、「それはあまり的を射た活動とは言えないですね」「そのアプローチは的外れでしょ」と指摘を受けたことは少なくないし、最近もあった。 こういうケースでまず考えるのは、その指摘をしたヒトとボクは果たして同じ的を見てるのかなあ?ってこと。 「同じ的」 ビジネスの場合は、中長期の事業戦略や単年度の達成目標がわかりやすい例。 そもそも同じ達成目標(的)を持ててない、共有できていないのに「的を射てない」「的外れ」の指摘は、それ自体がナンセンス。この場合は「的を得てない」わけなので、翻ってまずやるべきことは「そもそも的はなんでしたっけ?」を議論すること。 一方、その期に達成...

いちばん伝えたいことは何?

タイトルが無い本や映画はありません(あるのかな?)。タイトルがなければ、何に関して書かれている本なのか、何について描いた映画なのか、読破し視聴を終えるまで理解することはできません。先週読んだ本のタイトルは「集団の思い込みを打ち砕く技術」、「世界一流のエンジニアの思考法」。どちらも何についての話なのかをたちまち想起させるもので、さすが編集者さんたちのネーミングセンスはスゴイなあと思わされます。 Eメールの件名、本や映画のタイトルと同じように件名を見るだけで内容をほぼ正確にイメージできるものだと、メールの受信者はうれしいですよね。開かなくても「いま開封すべきかどうか」「スグに目を通すべきか」を判断することができる。 資料やプレゼンの表紙も同じ。何についての資料なのか、プレゼンなのか、をその一文で伝えることができるかどうかを熟慮した上でタイトルが付けられているか否かで、つまり、受け手全員が同じ認識でその先に進むことができるか否かで、資料やプレゼンの効果は大きく変わる。 そして最も重要なのはタイトルの後、当然その中身。 もっとも伝えたいことは何なのか。伝えたいことがひとつならひとつ、みっつならみっつ、メール本文、資料のコンテンツ、プレゼンで説明する内容、他はぜーんぶ忘れていいからこれだけは脳ミソに刻んで欲しい、というポイントが必ずあるはず。それにフォーカスして資料もプレゼンも整理する。 情報量を極力減らす努力と思い切りは大切なのかもしれません。 ボクの経験上、取引先相手だろうが社内メンバー相手だろうが受け取り手の脳ミソの負荷を減らしたコミュニケーションのほうが喜ばれます。たーくさんの情報を一度に渡しても、どんな優秀なひとであってもすべてをすぐに消化することはできないですから。 最悪なのは、もっとも伝えたいことが多くの情報量の中に埋もれてしまうことです。付加的な情報は受け取り手からリクエストされたときに渡す、くらいの感覚でOKじゃない? 「これだけはわかって欲しい」 その一点のみに集中するのがまずはいいようにボクは思います。 Appleがどういう会社かを説明するとき、最初に「アメリカ合衆国カリフォルニア州クパティーノ市に本社を置く多国籍テクノロジー企業で、デジタル家庭電化製品、ソフトウェア、オンラインサービスの開発・販売を行っている会社です。」とは言うわけもなく、「iPhon...

モノマネでいこう。

ふと思った。 「人類誕生から現在までどれくらいの人が存在したのか数えることができるとしたら一体全体どれくらいの人数になるんだろう?」 いや、すごいね。そういう数字、調べてみるとちゃーん在るんだよ。あざます! 2022年に発表されたデータだけど、その時点で累計1170億人なんだって。 (引用:https://www.prb.org/articles/how-many-people-have-ever-lived-on-earth/) これまで1170億個の脳ミソたちそれぞれがほんっとにいろんなことを考えて繋がってきたことで、いろんな文明や文化がブチ上げられていまに至ってるわけだよね。 はーすごいわ。 1170億個の脳ミソが作り上げてきたこの世界。いまさら全く新しいこれまでにないオリジナルな何かって存在し得るのかね、と連想。そんなのあるのかなって。 例えば、過去50、60年くらいロックミュージック界隈を振り返ってみても、JBやジミヘン、ツェッペリンやサバスあたりは一音聞いただけで「あ、アイツらな」とたちまち聞き分けられるような独自性を持った音楽ではあるけれどもオリジンではないわけで。いや、そんなこと言い出したらオリジンなんてないのかもしれない。ロックミュージックのルーツがなんだろうと辿ってみるなら、それはブルースなのであって、そのブルースのルーツは綿花を摘みながら歌われた労働歌なのであって、その先もあるんだよなとか考えるときりがなく、その本当の起源を特定することなんか無理(1170億個のうち、どの脳ミソがオリジンなのかを特定できるわけない)。 「オリジナル=何かの起源」ってことで定義してしまうと、それにあたるものは何も無いのかもしれない。つまり、オリジナルだと位置付けられているものの全ては、太古の昔から脈々と受け継がれてきた文明や文化の変化の過程の中で何かが突然変異的に華々しく変化したものなのであって、その時その場所に突如としてポッと湧き出てきたものなんかひとつもないんじゃないの? では、発明ってのはオリジンなのか?と疑問が浮かび、「人類史上最大の発明を5つ挙げて」とChatGPTに問いかけてみると、「印刷技術・電気・蒸気機関・航空機・インターネット」がそれだと応える(あれ?石器や紙、車輪などは含まれないの?と聞き返すと、あ、そういう意味ではそれらもそうです、と。どうい...

★ドリームジョブ★

まあね。そりゃやりたい仕事=ドリームジョブに就けてる人なんて世の中の一握りでしょうよ。 やってる仕事=やるべき仕事=やれる仕事=やりたい仕事 この4つがこうやってイコールになった状態がドリームジョブに就いているってことなんだよなと勝手に定義して先に進みます。 ドリームジョブを手に入れるため、そのためにはクサらずに努力はしたいわけですよ。努力しないでいるよりは、やり続けた方が人生が楽しくなる可能性がおっきくなりそうな気がしませんか? カンタンなことじゃないけど少なくとも意識くらいはできそう。 いま やってる仕事 、なんですか? 会社からやれと言われてる やるべき仕事 はなんですか? 自分が持っているスキルや経験を活かして やれる仕事 はなんですか? 自分が本当に やりたい仕事 はなんですか? どう揃えるかを考えるために、まず揃ってないケースにはどういうものがあるのか、考えられる対処法について整理してみます。 ケースA:「1.やってる仕事」と「2.やるべき仕事」がアンマッチ ・やるべきとアサインされた仕事を遂行できてないのだと思います。 ・その原因として考えられるのは、やるべき仕事を遂行する環境をマネジメントが与えていない(やるべき仕事を明確に指示していない場合を含め)か、マネジメントは与えているがアナタがやるべきじゃない別の仕事を優先してしまっているか、のどちらかじゃないかなあ。 ・これをイコールにするのは比較的容易。前者ならマネジメントと交渉すればいいし、後者ならアナタ自身がやるべきことをやればいいだけ。 ・アンマッチ状態が続いてしまって実績評価のタイミングをむかえてしまったら、その結果は低いものになるはずで双方にとってアンハッピー。 ケースB:「1.やってる仕事」と「2.やるべき仕事」はマッチしているが「3.やれる仕事」とはイコールになってない ・おそらく不適材不適所なアサインメントがされてるんじゃないですかね。 ・原因として考えられるのは、マネジメントがアナタのスキルや経験を正しく理解していないか、理解はしているが敢えてそれを無視したアサインメントを行っているか(※)、のどちらか。 ・1・2と3をイコールにするためのやれることのひとつは、アナタがマネジメントとコミュニケーションをとり、「やれる仕事」を軸にした「やるべき仕事」をアサインして欲しい、とリクエストする...

薬と毒は匙加減

薬も処方量を誤れば毒になり得るし、毒だとしても使いようによっては薬になる。 つまり、普遍的に薬である物質・毒である物質は存在せず、使い方によってどちらにでもなり得るってことですよね。 例えば、いわゆる風邪薬を過剰摂取(オーバードーズ)すると、意識障害や呼吸困難、場合によっては心停止することもあるし、優れた鎮痛剤であるモルヒネを誤って過剰投与されてしまうと意識不明、痙攣や重篤な脱力感やめまいにつながる、とか。 逆に猛毒として知られているトリカブトは、乾燥させると鎮痛剤や強心剤となるらしいとか。 重要なので繰り返し:薬は毒になり得るし、毒は薬になり得る。目的通りに使うには匙加減が超重要。 ーーー ビジネスにおいても同じことが言えるような気がしませんか、と。 ーーー たとえば会社の業績が芳しくないとして、それを改善するために投与する「薬」としてパッとアタマに浮かぶのはザックリこんなカンジ。 (どれを投与するのかは症状によって異なるわけだけど、ってのは横に置いとくとして) ・業務プロセスの見直しとコスト削減 ・市場戦略の再構築 ・資金調達と財務管理の改善 ・組織文化の改善と従業員のモチベーション向上 ・持続可能性と社会的責任の強化 えーっと、じゃあ「コスト削減」って薬にフォーカスするとして、このコスト削減という薬、過剰摂取した場合にどういう副作用が生じるか、つまり薬として投与したはずのものが過剰摂取によって毒に転じるケースがありそうかを考えてみると; 製品品質の低下 原材料や部品の品質を犠牲にしてコスト削減を強硬してしまうと当然製品の品質が下がり、それによって顧客満足度は低下、結果市場競争力が無くなってしまう。 サービスの悪化 お客さま対応やアフターサービスの品質を下げることとコスト削減をトレードオフしてしまうと、当然顧客満足度が低下し、長期的な顧客ロイヤルティの喪失につながる可能性が高くなる。 生産性の低下 業務の生産性や効率性に悪影響を与えることは自明であるのに、業務基盤や設備をコスト削減を目的に過度に縮小や変更してしまうと当然作業の遅延や低下を招く。 リスクの増大 必要なリスク管理や予防措置の縮小とコスト削減のトレードオフは、当然企業経営の安定性や信頼性が損なわれる可能性が高くなる。例えば、安全対策や法的コンプライアンスを軽視し過ぎてしまうと機密情報漏洩などのリスクが...