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優秀バイアス

言わずもがな人間は様々な能力を持ってる。 それら様々な能力のうち、どれに秀でているかは当然個々人によって異なる。 どれか特定の能力に限定して比較するなら、その能力において誰が優秀なのかを判断することはできる。 逆に言えば「誰が」イチバン優秀かを判定するにはは、どの能力について比較するかを事前に取り決めた上でないと決めることはできない。 ​ つまり、「あの人は優秀だよねぇ」という声が聞こえたとして、それはその人そのものが優秀ということではなく、その人が持つある特定の能力が優秀である、ということ。この論理においては「優秀なひと」は存在し得ない。 スティーヴ・ジョブズのクリエイティヴィティはそれはそれは「優秀」だったと世界中が認めるだろうが、彼が同様にアメフトの世界でも優秀であったとは言えないわけで、この場合でも「スティーヴ・ジョブズはプロダクトクリエイティヴにおいて優秀だった」とやはり特定の能力において優秀だったということであって「人間スティーヴ・ジョブズは優秀だった」とはならない。逆にトム・ブレイディは史上最も優秀なQBと言えるが、プロダクトクリエイティヴにおいてはそうじゃないわけでやはり「人間トム・ブレイディは優秀だ」と断言してしまうのは違う。 さらに、プロダクトクリエイティヴにおいて優秀である能力、アメフトにおいて優秀である能力、このふたつの能力のどちらが優秀なのかを決めることもできない。 高いプロダクトクリエイティヴの能力、高いアメフトの能力。プロダクトクリエイティヴ界隈において比較するなら前者の能力が優秀と扱われるし、逆にアメフト界隈において比較するなら後者の能力が優秀だともてはやされる。 状況や目的に応じて比較するなら誰のどの能力が優秀なのかは判定できるが、「どの能力において優秀であることが他の能力において優秀であることよりも優秀か」を決めることはできない、ということ。 ・野球が上手い人 ・サッカーが上手い人 ・テニスが上手い人 ・料理が上手い人 ・歌が上手い人 ・コーヒー焙煎が上手な人 これらの能力のうち、どの能力において優秀であることが最も優秀なひとだと言うことができますか? いいえ。 能力間に優劣を付けられないなら、誰がイチバン優秀なのか、を決めることはできないということであって、やはり優秀なひとは存在しないということになる。 ーーー 当然ビジネスにお...

活用とドーピングの境界線

サイボーグ。 肉体と機械のハイブリッドって定義は間違いなさそうだけど、マイノリティリポートやアリータ、スパイダーマン2(サム・ライミのほう)なんかを観ていると、なんつーか「キミはサイボーグだね」と識別される境界線はなんなんだろうなあと。 メガネや補聴器を着用して視力聴力を高めること、ローラーブレードを履いて移動速度を高めること、つまり何かを身に着けることで自分の能力や感覚を強化した人のことはサイボーグと解釈されないんですか?と屁理屈こねながらサイボーグの定義を調べてみると 「人間の身体に機械的・電子的な補助装置を”組み込んだ”存在」 がそれにあたるらしく、なるほど着用しただけではサイボーグではないらしい。 ふーん。 じゃ身体拡張(Body Augmentation)の定義は何なのよ?といつものように連想して調べてみると、 「人間の身体的機能や能力を、技術や外部装置を使って強化・補完すること」 ということらしい。 なら、技術や外部装置を使って身体的機能や能力を強化・補完した状態の人間はサイボーグではないけれど(身体に何ら組み込んではいないので)、何かを身に付けたり持ったりすることで身体的機能の維持やその能力を高めた状態は「身体拡張した状態」ってことなのか。 身体的機能の維持やその能力を高めるために何かを身に付けたり持ったりはしていないけど、サプリメントを服用したりとか遺伝子編集したりして身体能力を強化・補完するようなケース、これは身体拡張を超えて「人間拡張(Human Augmentation)」と呼ぶみたい。つまり身体的拡張に加えて知的・感覚的な能力をも向上させる技術や方法のこと。 スポーツなどの競技界隈においては、(法律やその競技の規定で認められていない)サプリや薬物、科学物質を服用することで一時的に筋力や持久力を高めるなんてこともあるわけで、これも人間拡張の定義に合致するような気がするけど、それを外れてドーピングに分類され不正や違法の対象ととなってしまう。なんなら遺伝子編集しちゃうと一時的でなく恒久的に身体能力を高めることが可能。当然公平性を損なうという意味では不正や違法と扱われることになりそうなわけで、遺伝子編集があったことを示す具体的な証拠を容易に特定できるようになれば、この恒久的な試みについても「はい、それドーピングね」となるんだろうね。 そもそもドーピン...

自分プロデュース

ブランディングとブランド及びマーケティングの関係や在り方についてのボクの解釈はこんなカンジ。 ブランディングの目的: 1.企業が持つ「こう思われたい(ブランドアイデンティティ)」と、その企業に対する顧客の「こう思ってる(ブランドイメージ)」を一致させる 2.その一致によって顧客からの信頼・信用を獲得すること マーケティングの目的: 3.どんな商品・サービス(Product:以下プロダクト)を、どこでだれに向けて(Place)、いくらで(Price)提供するかを意思決定し行動する 4.そのプロダクトが存在することをどうやって認知してもらうか(Promotion)を意思決定し行動する 5.その結果として、そのプロダクトを購入してもらうこと ブランド: 6.企業の「こう思われたい」をベースにした振舞いの結果、市場がその企業に対して持つ「こう思ってる」イメージのこと(企業ブランド) 7.マーケティングの結果から生み出されたプロダクト開発コンセプト(こう思われたい)に基づき開発されたプロダクトを市場投入、そのプロダクトに対して市場が抱いた「こう思ってる」イメージのこと(プロダクトブランド) 8.企業ブランドが先行、それに適合したプロダクトを市場投入し、プロダクトブランドを形成していくという順番もあるし、 9.プロダクトを市場に投入し続けた結果として出来上がる複数のプロダクトブランドの群れが企業ブランドを形成する、という順番もある ーーー 「企業ブランド?プロダクトブランド?んなもんどうでもええわ!」というならそれはそれでひとつの戦略、マーケティングにだけ注力していればいい。それでもビジネスは続く。 ただこの「どうでもいい」場合でも意図せず「ブランド」は形成されてしまう。なぜならプロダクト開発➔プロモーション➔販売、そのプロダクトから得られる購買体験や利用体験が顧客の心に刻まれ、それがプロダクトブランドとなり、その積み重ねが企業ブランドになるから。 つまり「こう思われたい」がなくても、「こう思ってる」は勝手に顧客の中に形成される。 そしてその「こう思ってる」は、意図せず良質なブランドとなりその企業により大きな価値をもたらすかもしれないし、そうでないブランドになってしまいその企業に損失を与えてしまうかもしれない。「こう思われたい」を放棄することは「こう思ってる」のコントロールも放...

合意形成のややこしさ

ビジネス界隈において何かについて結論を出そうとする場合のスタイルとしてこの現代に存在していそうなものは概ね以下1~5くらい?(「占い」のに頼ってるところもあんのかな?) 1. 独裁(周りの声は無関係、あるひとりの考えだけに基づいて結論を出す) 2. 独断(周りの考えを聞いた上であるひとりが結論を出す) 3. 合意形成(関わった人たちで議論し全員が納得できる結論を出す) 4. 多数決(関わった人たちの中で最も多い考えを結論とする) 5. 信任(第三者に委ねる) これらのスタイルのうち、最も取扱いが難しいのは3であることは白黒分明、だって5つのうち3だけが当事者たちによる「議論」を要するから。 本来議論てのは、本質的な課題や論点について自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして「論じ合うこと」を通じて、お互いの意見をぶつけ合い擦り合わせながら、課題や問題に対して当事者全員が納得できる解決策を導き出すことを主に目的としたものなわけです。 画でイメージするなら参加者それぞれの考えが議論によって徐々に近くに寄ってきて寄ってきて、そして重なり始めて、重なった領域が少しずつ少しずつ大きくなって、その重なった部分を「当事者全員が納得できる結論」として取り扱う、といったいう具合に。 ーーー そして、その「3. 合意形成」の場に参加する議論の当事者の振る舞いというかスタンスとしては、少なくとも以下A〜Fの6つがあるよねと思ってる。 A. 絶対に自分の考えを曲げずに押し通す(「これしかないっしょ。他に何かある?」) B. 自分以外の誰かの考えの中に自分の考えに近いものがあってそれに合流する(「〇〇さんの考えをベースに進めましょう」) C. 自分以外の誰かの考えが自分の考えとは異なるが共感できるのでそれに乗り換える(「〇〇さんの考えでもいいです」) D. Aの主張が強すぎてどうにもこうにも結論が出そうにないので仕方なくAの考えに同意したことにしておく(「いいですよ、Aさんの考えで」) E. 自分にはその課題やトピックについて結論を出すだけの知識や経験がないのでなんとなくよさそうな誰かの考えに従う(「〇〇さんの考えがいいと思います」) F. その課題やトピックについて考える気もなく、どうでもいいので他の人に委ねる(「みなさんにおまかせしますよ」) ーーー 上述した「3. 合意形成」とその...

熱く語れ!

ご近所徘徊。あれ?見慣れない建物ができてんな、と眺めてみると、あらブルーボトルじゃんか。随分と店舗増えてきたんだねぇ、とかどーでもいいこと考えながら少し先に進んだ先の公園、ああ砂場ねー。気温も下がってきたし随分たくさんのキッズが集まってんなー。ガキんちょのころはいろんなもん作ったなーと走馬燈がよぎりはじめ、ああいよいよかと命の灯が消えかかる危機を感じる。 「こういうお城みたいのつくりたいんだよ」って友達に説明して指示して作るようなときもあれば、(友達それぞれが砂場に持ち込んだ超合金のために)「何つくる?」「やっぱ基地じゃね?」「いやプールがいい。水入れて。」「錆びんじゃん。街みたいの作って壊そうぜ」「じゃ基地作って爆竹で壊そう!」みたいに何つくるか友達全員で合意して作りはじめるときもあったなあ。 それってなんか大人になっても普遍妥当。同じようなことを見聞きすることが多い。 ーーー A. 何かを実現したいリーダーがいて、その実現に共感して参加するメンバーで構成されたチーム B. 集まったメンバーで何を実現したいかを議論→合意し、その実現に向けて進んでいくチーム ーーー 音楽に置き換えると、 Foo Fighters、Metallicaのあたりはリーダーありき、彼ら(Dave Grohl、James Hetfield)のやりたい音楽を実現するためのバンドであって明らかにAタイプのチーム(日本のバンドだとKing Gnu(常田)とかもこのタイプ?)。一方、Stone Temple Pilots、System of A Down、RHCP(日本のバンドだとマキシマムザホルモンとか)なんかは全員が揃ってはじめて創れる音楽・出せる音であってBタイプのチーム。まあみなさんいろんな意見あると思いますがボクの感覚ではこういう解釈。 Aタイプのチームの場合、バンドでありながらバンドである必要がなくソロアーティストみたいなもの(言い過ぎ?)。あくまでリーダーがやりたいことに対してメンバーが異論を唱えるようなことは基本的にはなさそうで、リーダーがイメージするものをイメージするように表現するメンバー、という関係。リーダーから「4拍目にキック欲しいからもっかいやってみて」「そこ、ラリー・グラハムみたいな感じのスラップで」というような細かいリクエストも日常。 Bタイプはそうでなく、メンバーそれぞ...

バック フロム ザ フューチャー

過去を振り返ってみると、「ああ、あれはちょっと判断ミスったなあ」って後悔することがまぁホント、いくつもある。 そのサイズが最も大きいものに絞ってみるなら、40年前・30年前・10年前の3回。よく映像作品や小説などで描かれることだけど、もしタイムマシンが在ったなら、サクッと時空を飛び越え、その時の自分に「オイ、違うだろ」と襟首を掴み、ブンブンと前後左右に揺さぶりながら声が枯れるまで全力で忠告したい。 じゃあイマの自分はどうなんだろうね。 もし同じようにミライの自分がイマの自分を見たときに、大きいサイズの後悔をさせるようなことになってないのかな、って思ったりね。 ーーー 例えば、アナタは現在35才、とある企業の係長。割り当てられた役割や責任、仕事の内容、同僚や上司・部下との関係に思うことはいくつかあるが大きな不満はない。差し当たりこれからどうしたいとか思い描く夢のようなものは無く、基本的には思考停止。オートマティックモードで日々が過ぎていってる。 ーーー さあ、5年後の40才のアナタを想像してみて。 「まだ係長のまま。当時部下だったメンバーはいまや別の部の課長。まわりはドンドン変化しているのに自分はサラリーもジョブタイトルもなにも変わっていない。変わったことは年を重ねたことくらいか。」 これがアナタの40才だとしたらどう思う?実際にそうなってしまったら? 「ああ、5年前の35才に戻れるなら〇〇するために△△するのに。」 とボクのように大きめの後悔をしちゃったりするんじゃあないですか? 5年後もイマとまったく同じで何の変化も起きてないミライ、それが誰にとっても望ましくはないとまでは言わないが(変化がないことが正しいとされる世界もあるわけなので)、少なくとも面白くはなさそうだし、嬉しくもなさそう。そうならないように、5年後の自分、つまり5年後の自分にどうなっていて欲しいかのビジョンを描き、それに近づくためには何をやるべきかを企むくらいの余力はどんなに忙しくたってあるでしょう? ーーー 目標設定のフレームワーク、つまりミライを描くことを助けてくれるツールは、SMARTだとかGROW、HARDやマンダラなど世の中に無数にある。そういった類のものの中に自分にフィットするものがあるならそれを使ってミライを描くのはひとつの方法。でも、そういうフレームワーク自体も自分で作ってしまうほう...

SHOGUN成功の舞台裏に再認識させられた3つのこと

これを書いている時点で、クリエイティブ/アーツエミー賞14部門受賞のSHOGUN。このあとのエミー賞では主演男優、主演女優、助演、監督、作品など各賞の発表が予定されていて爆裂楽しみ。USはもちろん各国ではGoTと同等、いやそれを超えてんじゃんと思えるくらい「オカネ! カセグ! ワタシハスター!」の拡散レベルをも凌駕するグローバルムーブメント。 SHOGUN以前にハリウッドで制作された日本をテーマにした映画やドラマはといえば(例えば2003年に公開された「ラストサムライ」)、セリフは英語だわ、表現は「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ」というような彼らが漠然と持つ日本のイメージをまんま形にしたようなモノだわで、義務教育で歴史を学んだり史跡に触れたりしてきていることでハリウッドの彼らよりはおそらく当時の日本に関する知識を少しは深めに持っているであろうボクら日本人からすると片腹痛いものだったと言わざるを得ない(まあボクらはもちろん、膨大な資料を読む込む歴史学者だって仮説立ててそれを証明し史実に加えたり書き換えることはできても、実際にその時代を過ごしていない以上当然史実が間違っている可能性はあって、それをベースとしたボクら日本人が持つイメージだって当時の日本人からしたらおかしなものなんだろうけど)。 SHOGUNはどうやらラストサムライの類とは違って、日本人が持つ過去の日本に対する理解やイメージから逸れていないようだ。一方、切り取るシーンや表現手法には色濃くハリウッドスタイルが残されていて、それとのハイブリッドが生み出すユニークさがこの作品の魅力を高めているように感じてる。 何がその魅力を生み出したんだろう?とプロデューサーの真田広之氏(以下敬称略)のインタビューをいくつか漁ってみた。すごくザックリと要約するとその理由は以下の通り。 ーーー ・これまでもハリウッドで制作する日本を題材にした作品に参加する際は、できる限り日本を日本として描けるように(例えば、サムライなのに英語を話すようなことがないように)働きかけてきたが、イチ演者としては限界があり、「それは無い」というような表現でも無理矢理自分を納得させるしかなく何度も悔しい思いをした。 ・どうしても作品の方向性や表現の在り方に納得できない場合はジョインすることをあきらめたり、離脱することもあった。 ・今回のSHOGUNではプロデ...