その世界はボクが生きてる間にはどーせやってこないのだから、せめてできるだけたくさん愉しんで楽しみたい

ヒトにはなりきれない


所謂ホワイトカラーとして分類される仕事群の内、クリエイティヴな領域を除くほとんどのものはAIによって置換可能な環境が整いつつあり、Anthropicの台頭によりそのスピードはグングン加速している。

「クリエイティヴな領域を除く」と言う点についても、個々の思想によって見解は分かれ、映像・画像・音楽制作などにおいてすでにAIの制作するものが欲求を満たしてくれている、という人たちもいるだろう。これを否定するつもりはこれっぽっちもない。食器としての機能を満たしているならそれが作られた過程は問わない、という考え方が在る一方で、「〇〇焼」など職人が手作りすることにより担保される唯一無二さ、暖かさ、人間らしさ、のような要素を嗜好する考え方もあり、AIによる制作物で満足する人たちと、「誰がどういう想いで創ったか」を重視する人たちがこれからも共存することになるのだろう。

例えばミュージシャンは、何かを伝えたくて曲を作り、それを表現し、そのことに共鳴する人たちがいる、という構図がある。その「伝えたいこと」は、喜び・悲しみ・怒り・驚き・恐れ・嫌悪(いわゆるクオリア)など、基本的にはミュージシャン自身の(或いはそれが見聞きした)過去の経験や体験が素材となっているのであって、AIが制作する音楽は表面的には音楽のようではあるのだが、核となるその「素材」が欠けているがゆえに誰かの琴線に触れるようなものにはなり得なくない?というのがボクの現在のスタンスだ。

音楽や絵画、小説、アニメ、映画、舞台、演劇などについては、その核となる「素材」をAIが獲得しない限り、AIによるその領域における制作物はいつまで経っても「そこに在るが無い」ようなものであり続けるだろし、この点こそがAIをヒトと等しく振る舞える存在たらしめることを阻害している最も大きなブロッカーだ(しかし、2001年に公開された「A.I.」に登場する少年型ロボット、DavidのようにAIが感情を持つことになるなら、この考え方は一気にステレオタイプのそれになってしまうが)。


ホワイトもブルーも

とはいえ、上述した以外のホワイトカラー界隈においてはそのほとんど全てが技術的にはAIに置き換え可能となっていて、すでにcan or cannotではなく、do or do notの選択になっている。

一方ブルーカラー界隈の仕事はAIに代替不可ということで、ここ数年はその界隈に属する企業の価値と評価が高まっている。繊細な手作業が必要な大工・左官・配管工や長年の経験と勘に基づく職人技術が求められる電気・水道・ガスなどのインフラ技術者、数値化しにくい判断が伴う農業従事者などがその一部。アメリカでは主に建設・インフラ業界において「ブルーカラービリオネア」の出現も見られるほどだ。

この事象は、コンピューターサイエンスの世界における「モラベックのパラドックス」そのもの。高度な論理推論よりも、1歳児でもできる「歩く・掴む」といった身体的動作を機械に再現させる方がはるかに難しい、という逆説が今、現実の労働市場にそのまま現れている。


それでも置き換わっていく

しかし、AIは「感情」も「勘」も未来永劫持ち得ないのだろうか?

そんなわけはない。そのことは「AIの弱み=課題」であることが自明なのだから尚更、ヒトもAI自身もその課題解決に邁進するに違いないし、物理ロボットと量子コンピュータの進化はその解決を爆発的に早めるだろう。

AIは量子コンピュータの進化(商用化)を早めるし、量子コンピュータはAIと物理ロボットがどう在ればその課題を解決できるのかの解を見つけ出す。その解の妥当性をAIが評価し、物理ロボットはその解を実行し、その結果を量子コンピュータが分析し、その結果をAIに渡す・・・このスパイラルがAIに「感情」や「勘」を与えるだろうことに加え、現時点でヒト以外が対応するのはムリと考えられているブルーカラー界隈の仕事をヒト以外が受け持つことを現実にしてしまうと思っている。

どういうことか?

例えば農業。正確無比な天候予測、或いは天候に左右されない栽培環境のデザイン、それを最も効率的で効果的な方法で構築する計画の策定、その計画を昼夜問わず遂行し続ける物理ロボット。もう一歩進めると体細胞クローン技術を使い、味や生育スピードなど特に優れた個体をコピーする形式で野菜・魚・牛・豚を生産することができてしまう(すでに技術は確立されているが、社会実装には当然倫理的ハードルがあるし、かくいうボクもコレ向かって進むのはどうなんだろうね、とも思っている)。

病院が持つ機能も然り。おそらく今後はトイレにAIが搭載され、用を足す都度健康に関するあらゆるデータが採取され、それがクラウドで分析され、異常が検知されたら治療を促され、その治療はドクターという名の物理ロボットが行う。

公共インフラについても同様。都市計画やその実行計画や実行もヒトが関与せずともその時点で考え得る最も無駄の生じない公共インフラが作られていく。

AIや量子コンピュータ、物理ロボットの活動源として必要な莫大な電力(将来的には何か他のリソースになるのかもしれない)についても、核融合による永続的な電力生成がアチコチで実現し、彼らの行動が停まることはない。

そして、上に限らずあらゆる産業に必要な様々な資源の確保、これもAIや量子コンピュータが最適にコントロールし、なんなら開発・生成もしてしまう。

つまり、これらの活動にヒトが介在することなく、食糧・医療・公共インフラ・エネルギーなどなどヒトが生きていく上で必要なものがAIや量子コンピュータ、物理ロボットによって提供でき得る世界がすぐそこにある、ということなのだ。


ではヒトは何をして生きていくのか

上述したことは、経済学者のケインズが約100年前に予言した『技術的失業による、人類史上初の自由』の現実化だ。

ヒトは生きるために働く必要はなくなる。働く必要がなくなるならヒトは何をするのか。

その時こそ、喜び・悲しみ・怒り・驚き・恐れ・嫌悪をエンターテインメントとして楽しむことになるのだと思っている。それらの感情を楽しむためにヒトは「新しい何か」を創造し、それを楽しむことが生きる意味となる。

近未来を描いた映画、例えばWall-Eなどではまさにそのような様子が描かれている。今、その未来にヒトは向かっている。

量子力学の議論から派生して、この地球そのものがシミュレーターであり、ヒト(正確には肉体を持たない魂)はそのシミュレーターに、喜び・悲しみ・怒り・驚き・恐れ・嫌悪というようなあらゆる感情を楽しむために「生まれてきた」宇宙人、というような考えを持っている人たちも存在する。

ボクはその考え方と、コレから向かおうとしている未来のシンクロ率の高さにゾワっとするような感覚を味わいながら、「結局どう楽しむか、ってことじゃんね」と、そーゆーことなら五条悟レベルの楽観主義でもっともっとたくさん愉しんで楽しみたい、と初夏の夜空を眺めながら固く誓うのであった。

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