「知っている」と「分かっている」は全く違う。
Appleに買収される前のSiri社の共同創業者であるTom Gruberも、IDEOが運営するCreative Confidence Podcastで声高に述べているように、生成AIはあくまで人間の能力を増強(Augument)するものなのであって、人間の能力に置き換わるものではない。
少なくともそうであるべきだというのが彼の主張、それにはボクも200%同意。過去記事「オレ流AIとの付き合い方」でも類似することを書いた。つまり、自分で考えることを放棄すべきじゃない、と強く思ってる。
考えることをAIに委ね、自分はそれを放棄したとして、果たして自分は依然として自分なのか。
いいえ。
それは、外見は夏油傑だが実体は加茂憲倫であることと同じで、もはや自分であるはずがない。
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例えば、Geminiに、Back to the Future part1(以下BTTF)のストーリーを100文字以内にまとめてもらうとこうなる。
「高校生のマーティは、科学者ドクの作ったデロリアンで1955年にタイムスリップ。両親の出会いを邪魔してしまい、自分の存在が消滅の危機に。現代に戻るため、両親を再び結びつけ、ドクと協力して未来へ帰る。」
Back to the Future part1を観たことがない誰かにこの文章を見せたとき、その誰かの状態はその映画の内容を「知っている」となるのか「分かっている」となるのか。
まず、それぞれの定義は以下のようなものになるのだと思う。
知っている
- ある特定の事柄についての情報を持っている状態
- 持っているのは、断片的且つ表層的なもので情報の背景や関連性は限りなく曖昧
- であるので、その認識に対して質問を受けたとしても、回答や説明は困難
分かっている
- ある特定の事柄について明瞭な理解を持っている
- その理解は、感情や経験が伴い理論的・感覚的にその意味や背景を実感できているもの
- であるので、その認識に対してどんな質問を受けたとしても、回答や説明が可能
この定義を踏まえて、BTTFの例に戻ると、上記の文章を見たとして、その映画のあらすじについて「知っている」とは言えても、キャラクターたちの飛び交う感情やその背景までを掴めている状態では絶対にない。つまり「分かっている」状態ではない。
- 主人公Martyの友人であるDr.Emmett Brownの実験室に置かれた無数の時計をパンするところから映画は始まる。その時計の中ひとつに、物語のエンディングシーンを切り取ったものが置かれていて、その先の展開を予見させていること
- Martyが通うハイスクールのBattle of the bandsに彼のバンドが出場し演奏を始めた数秒後、審査員役のHuey Lewisがバンドに向かって「I’m afraid you’re just damn too loud. Next please!(悪いが、単にうるさいだけだな。次!)」と拡声器を通して伝え、演奏を中断させるやりとりがある。これはBTTFの撮影が終了した1985年4月の3か月前、「We are the world」のレコーディング時にHuey Lewisの声が大きすぎて(too loud)マイクロフォンを壊してしまったという逸話にインスパイアされたシーンなのか?(後にその事実はなかったことが判明するが)と思わされること
- 初めてのタイムトラベルが成功するシーンはTwin Pine Mall というショッピングセンターの駐車場。Twin Pineはその名の通り2本の松の木。そのタイムトラベルで30年前の過去に行ったMartyはこの2本の松の木を有する農場のオーナー、Old Peabodyとのトラブルで1本の松の木を破壊してしまう。その後、現在に戻ったとき、そのショッピングモールの名称はLone Pine Mall(1本の松の木)に変わっていること
ストーリーの本筋を引き立てるこうした二ヤリとさせてくれる仕掛けが随所に組み込まれていることは人々をBTTFに惹きつける要素のひとつだが、それらはGeminiによる要約からはおよそ読み取れるものではない。なにより、この物語の主人公はMartyに見えて実は彼の父親Georgeの物語であること自体、この映画を最初から最後まで見ないことには分からない。「知っている」だけでは、映画について突っ込んだ質問を受けたり、説明を求められたり、感動の共有を迫られたとして、それらへの対応ができるわけがないのだ。
そして、分かった上でこの映画に対する評価がどういったものであれそれはその評価をする人の自由だろう。しかし、「知っている」だけで分かっていないのなら、好き嫌いや良し悪しを語るべきではない。端的には「観てから言え!」ということだ。
そもそもこの映画の脚本家のBob Galeが、「よし、骨子のみを抜き出して10分程度にまとめた映像のほうがより多くの人たちに理解してもらえるし、楽しんでもらえるだろう。」のようなことを考えただろうか?
そんなわけがない。
伝えたいストーリー、届けたいメッセージ、汲み取って欲しい伏線やジョーク。こういった要素がキラキラに輝くように、足しては削って、前後上下入れ替えて、考えに考え抜いた結果としての116分、見逃してほしくない場面の集合体なのだ。
※そういえば、2015年にBTTF公開30周年を記念してUCLAで開催されたイベントに参加したときのことを思い出した。上述したBob Galeと劇中の音楽制作を担当したAlan Silvestriと話をさせてもらえる機会があった。簡単な会話のあとボクの娘との写真撮影に快く応じてくれたAlanに対して、Bobは終始無言だった。有色人種とは会話をしたくないというような白人至上主義者なのかとも疑ったが、後にBobは非常に気難しく初対面の人と会話をするような人ではないと判った。この気難しさがあるからこそ生み出されたであろう一部の隙も無いBTTFの脚本、これを要約などという無粋な行為によってそのストーリーを「分かった」つもりになっているなら、それは彼のマスターピースに対する侮辱じゃないの?と思ってしまう。
BTTFに限らず、映画を観ずにその映画を「知っている」状態にはなれても、内容を「分かっている」状態にはなり得ない。
本や文章だって同じ。
その全てを読まずに、要約された情報のみを「知っている」だけでは、考えることを放棄していることと同義だ。それを放棄すれば、その本や文章を書いた人の思考過程を辿れず、その人が本当に伝えたいことを理解することはできない。
※本筋からは逸れるが、過去記事「モノマネでいこう」で書いたようにオリジナルなんてもんは存在せず、自分の独自性を作り上げるには既にこの世にある事事物物の模倣を繰り返すしかないわけだが、それら事事物物の作者の思考を理解できないようならそもそも模倣することなんて不可能。模倣を積み重ねることができないなら何かを生み出すことはできない。思考することを放棄することは、この機会すらも奪ってしまうという面もあるのだということを添えておく。
もとい。
映画や本のように、作者から不特定多数のオーディエンスに一方通行に発信する性質のものなら、「知っている」だけだとしても大きな問題に発展することはまずないだろう。BTTFの内容を「知っている」だけで「分かっている」状態でないとして、そのことがアナタの仕事のクオリティや評価を下げたり、家族・友人との関係に亀裂を生じさせたりということはないはずだ。
他方、双方向コミュニケーションであるEメールやチャットでのやりとりになると話は別だ。そういった双方向コミュニケーションにおいて受け取った文章の内容を「知っている」だけで「分かっている」わけではないまま、そのやりとりに突入するのは非常にリスキーだ。なにせ受け取った文章が何を伝えようとしているかの本意を理解しないまま回答を返すことになるわけだから。
そして、文章の受信者に対してだけ、「知っている」でなく「分かっている」状態になるようにしたほうがよくないですか?と苦言を呈そうとしているわけではない。文章の制作者である発信者に対しても、Bob Galeの脚本のように伝えたいストーリーが正しく伝わるように、届けたいメッセージがきちんと届くように、その文章が「言葉選びも表現も流れも考えに考え抜いた結果として一部の無駄も隙もないもの」となるための努力を怠るべきではないのでは?という点についても記しておきたい。
文章を届けるということは、受信者の時間を消費するということ。受信者の理解がスムースにストレスなく整うように十分な配慮が必要。しかし、その配慮を施した結果としての文章が長文となってしまったとしてもそれに負い目を感じることはない。なぜなら、その長文は一部の無駄も隙も無いもののはず。
上記の指摘においては、少なくとも発信者は文章を制作するために必要な思考を放棄しているわけではない、という点はまだ救いがあるのかもしれない。
発信者すら思考を放棄し、発信する文章の作成を生成AIに委ね、それを受信した側も生成AIに要約させて受信した内容を「知り」、その返答を生成AIに書かせようとしているとするなら、一体それは誰と誰がコミュニケーションをしていることになるのだろう。
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環境問題に取り組むバイオベンチャー企業ユーグレナの2代目CFOであり、「国際こども平和賞」を日本人として始めて受賞した川崎レナ氏は、社会課題の解決にクリエイティビティで挑んだドキュメンタリーとしての書籍「答えのない時代の教科書」の巻末インタビューでこうコメントしている。
「よくよく考えてみると過程にこそクリエイティビティが潜んでいるんじゃないかって思ったんです。アウトプットを考えることはAIでもできると思うのですが、みんなでわかちあって絞り出す汗みたいなものが、最終的には人間にしかできないクリエイティビティなんじゃないかって。」
つまり、思考の過程の中で経験する感情的なシーンや情緒的なシーン、感じるワクワクや初めて何かがわかった感動、仲間との衝突と和解、それらがあったからこそ腑に落ちる結論が出せた、と。
2005年生まれ、デジタルネイティブである彼女がテクノロジーに完全依存することなく、むしろ時間も手間もかかるが正しく「分かっている」状態に到達するための過程の重要性を認知し、実際に取り組んでいるこの事実は、この先の未来を明るいものにしてくれる要素のひとつに出会ったような気がして本当に心強い。
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BTTFの中盤、1955年のDr.Emmett Brownは、1985年の未来からタイムマシンに乗ってやってきたMartyに出会う。その時代のまだタイムマシンを発明していない彼は、どうやら未来の自分が発明したらしいタイムトラベルを可能にするFlux Capacitorという名の装置を見せられ、こう叫んだ。
“It works! I finally invent something that works!(やった!ついに役に立つものを発明したぞ!)”
1985年の彼は確かにタイムマシンを発明した。しかし、1955年の彼はそれを発明する過程を(まだ)通っていない。つまり、その過程で得ることができるはずだった感じるワクワクや初めて何かがわかった感動を経験していないまま、結果としてのタイムマシンを目にした。
彼の叫びは「未来の自分が確かにタイムマシンを発明した、自分には発明家としての才能はないのかもしれないとどこかで思っていたが、自信を持っていいんだ!」というようなものであって、川崎レナ氏が経験しているような、実際にその過程を経て結論に行き着いたものだけが絞り出すことができる叫びではない。タイムマシンを発明できることは「知っている」が、そのワクワクや感動を「分かっている」わけではない、ということなのだ。
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「知っている」と「分かっている」、これらをどう区別するか、区別できたならそれぞれどう振舞うべきか、これらを意識に刻み込み、それに沿って行動することで、どうせならもっと多くの感動やワクワクを得れるようになるほうが人生は楽しいものになりそう、と思うんだけどね。ボクはね。
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