思考放棄シンギュラリティ
今朝のニュースでこんなことが取り上げられてた。
「遺伝子改変したブタの腎臓を腎不全患者に移植する「異種移植」の治験を、早ければ2027年から国内で実施する計画を進めている」
日本国内の腎臓移植の待機患者は約1万2千人、平均待機期間は約14年半(!)にも及んでいるらしく、事態はかなり深刻。ブタの腎臓の移植というような手法だけでなく、もっともっと安心安全で即時性の高い技術がもっと多く早く開発され、準備され、提供され、状況が劇的に改善するといいのに、と心底思う。
そして、できることなら(この問題の解決に向けて1ミリも貢献していないボクが無責任に言えるようなことでないことは重々承知だが)ブタが犠牲になることがない方法を、IQ200くらいの人たちとAIネットワークが協力して捻り出してくれないもんかと切に願う。
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人間や動植物の生命の価値は同等に取り扱うべきだ、という考え方がある一方で、人間の生命を最優先したブタの腎臓の人間への移植(感染症や拒否反応を防ぐためにブタの遺伝子改変することも含めて)のような動きについては、さまざまな議論はあるものの、少なくとも日本社会には概ね許容されているように見えている。同じく、人間の生命維持力を高める目的において、マウスを実験体とすることも同じだ。
「生命の価値の平等」というややもすると理想のようなものと、現実の行動や社会システムにおける「人間の生命の優先」、この二つの間に「ボクちゃん、絶対に動かんもんね」とでも言わんばかりに鎮座し続ける矛盾。これについては、ずいぶんと古くから議論されているみたいだが、ゼロかイチか、白か黒か、で結論付けられる類のものではなく、個々人の倫理観や価値観、文化や経済、社会的な制度などが複雑多岐に絡み合う中で起きている状況なわけで、世界中の全ての人たちの腑に落ちる答えを出すことはできないもののひとつなんだろう。
ボクらが属する社会には同様の矛盾がいくつもある。
- 犬や猫を大切な家族として扱う一方で、牛や豚・鶏などの動物は食肉として大規模に飼育・殺処分することを許容していること
- 絶滅危惧種の保護や自然環境の保全は重要であると声を張り上げる団体がいくつもある一方で、人間の生活の利便性や経済的利益を優先した結果、極端な森林伐採や漁獲などにより多くの動植物の生命や生態系が脅かされていること
- 環境保護を訴える企業が、大量生産・大量廃棄を同時に行っていること
こういった「矛盾を孕む議論とその解消に向けた結論が出せない状態」に対して、多くの人たちはその状態全体を塊として、「矛盾があるものとして矛盾がない」という風に結論付けてしまっているように思えて仕方がない。この矛盾に対して、これまでの人生に何の行動も起こしてこなかったボク自身、どこかにその結論を抱えたままのうのうと生活しているのだ。
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社会レベルからもう少しズームアップしてビジネスの世界にフォーカスしてみると、上述した倫理的ジレンマのような状態は、いわば論理的ジレンマのような形で「長期的な社会貢献の責務 vs. 短期的な経済合理性の追求」というような対立軸が多く存在しているように思う。
- 顧客の個人情報やプライバシーを完全に尊重しデータ収集を最小限に留めるべき、と情報管理に力を注ぐ一方で、ターゲティング広告の精度を上げ、収益を飛躍的に向上させるために詳細な顧客データを収集・分析している
- 企業は公正に税金を納め社会インフラの維持に貢献すべき、という一方で、複雑な法人構造を活用し、合法的な範囲で税負担を最小限に抑え、その分を自己資金として確保しようとしている
- 真に社会的な課題を解決するために費用対効果を度外視して純粋に社会貢献活動を行うべき、と理想を掲げる一方で、その活動によって企業イメージの向上や節税対策など自社の利益への帰結を期待している
というような類のものだ。
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もう一段レイヤーを下げて、オペレーションレベルにフォーカスしてみると、「会社経営 vs. 従業員の幸せ」という対立軸でいくつかの矛盾が挙げられる。
- 「有給取得率を上げよう」と言いながら、実際に取得しようとすると「いや、このタイミングで休むのかよ・・」という空気になったり・・制度としては認められていても、運用で制限がかかってしまっている
- 「残業はできるだけ減らそうね」という方針を掲げる一方で、残業しないと仕事終わんないよ・・というようなリソース配分になっている。結果、長時間稼働している人が評価され、定時稼働の人は「やる気がないのかな」と誤った取り扱いをされてしまう
- 「育成が最重要課題」と言いながら、実際の現場は常に逼迫していて、それに割く時間を捻出できない
こういったオペレーションレベルの矛盾は、「特定の誰か」を一方的に責めるような話ではなく、「組織」が抱える問題。理想を熱く語りながら、現実とのギャップを埋めきれずに宙ぶらりんになっている状態なのだろう。言っていることとやっていることの間に微妙なズレがあり、それが日々の業務の中で見えない疲れや不信感になって蓄積していく。
よしんばそのことに気付いたとしても、「そういう会社だから」とか「自分には権限ないし」というような免罪符を自分の中にどんどん増やし、矛盾を矛盾と感じない麻痺状態がドンドン強化されていく。そりゃあこういった矛盾を取っ払うことは難しい。自分ひとりでどうにかしようとするならなおさらだ。でも、難しいからとその矛盾を放置した時点から、矛盾の正当化が始まるってことなんだと思う。
だから、矛盾を感じたなら、気づいたなら、目に耳にしたなら、せめてその矛盾が矛盾であるということを忘れることがないように、時々何か矛盾はないか、を考えてみることは重要だと思う。
矛盾を無くす努力はできなくても、矛盾であることを忘れないこと。忘れないことは、「あれは矛盾だよね」と他の人と議論する機会が増え、その議論ができるなら矛盾が矛盾であることを理解する人たちの絶対数が増えていく。絶対数が増えれば、その中には矛盾を何とかしたいと思う人が増え、思う人が増えれば実際に矛盾を取っ払おうと行動する人が出てくるはず。
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「NEXUS 情報の人類史」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリによれば、AI界隈におけるシンギュラリティの定義は、「人間の理解力が、AIが創造する世界を理解できなくなるポイント」だそうだ。本格的な量子コンピュータとAGIが登場し、数百万、数千万もの高度なAIがネットワークで繋がり経済システムや政治システムを作りだす、その内容が高度すぎて人間が理解できる領域を超えてしまうポイントのことだ。
その構図は現実に出来上がっている。
人間が作り上げた経済システムや政治システムを、牛や馬が理解しているわけがない。それと同じ構図がAIによって作り出され、今後は人間が牛や馬の側に回されるということが起こり得る。人間が単に牛や馬の側にまわるのではなく、AIと人間が対等に共存していくためには、人間とAIの間に既に存在する、或いはこれから起こり得るであろう、人間にとって致命的な誤りを発見し、それを修正するための「自己修正メカニズム」を早急に確立することが必要だ、というハラリによる警鐘だ。
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ハラリに倣うなら、個人や組織が矛盾する状態に馴化し、その不条理さに対する危機感や違和感を完全に失い始めるポイントのことを「思考放棄シンギュラリティ」と呼んでもいい。
ブタが犠牲になることを前提とした解決策が期待を集める矛盾に対して何も行動することができなくても、その矛盾を忘れずに「そこには矛盾があるよね」と何らかの形で発信し続けることは、自分自身が思考放棄シンギュラリティに置かれてしまうことを回避しつつ、その発信を受け取った誰かが何らかの行動を起こすことに繋がるのかもしれない、という点では決して無価値ではないはずだ。
その矛盾に対して、「自分は何もできない」と諦めて、矛盾を矛盾だとわからなくなってしまう、すなわち思考放棄シンギュラリティに吸い寄せられ、半ば無意識にその境界線を越えてしまうのではなく、せめて矛盾であることを絶対に忘れない、という人たちがもっと増えるといい。
そういう人たちの塊こそが、おそらく自己修正メカニズムとして機能することとなり、矛盾を矛盾のまま放置せず何らかの是正を行おう、という集団意識が醸成され、実際に是正がなされていくはずだ。そんな環境が日本中の会社の中に築かれていくなら、その集合体としての日本はもっと元気になるんじゃないのかなあ、と割と真剣に考えている。
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